2015年01月27日

関西学院大学総合政策学部山中速人研究室 3年「あなたと話したい、復興ってなに?」復興ってなに?」阪神・淡路大震災から20年、あらためて復興の意味を考える(4)

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第4回 1月27日 有岡穂乃香・厳素芬

テーマ:遺族となった母親 彼女にとっての復興とは
担当:有岡穂乃香 取材相手 大石博子さん
◆トーク1
震災が起きた時は2歳でした。当時の記憶はなく、震災について学ぶのはこれが初めてです。そんな私が取材をしたのは、神戸市兵庫区に暮らしている大石博子さん。20年前の45歳の時に震災に遭い、当時16歳の朝美さんを亡くしました。今回、私は「震災で遺族となった母親・大石さんにとっての復興とは」というテーマのもと、地震で最愛の娘を亡くした一人の遺族に取材を重ね、「どんな20年を歩んできたのか」お話を伺い、そして、本当の復興とはなにか」について考えました。この震災により、大石さんの自宅は全壊。大石さんは3時間後に助け出されました。しかし、次女の朝美さんは、助け出された後、「ただ、生きて欲しい」その一心でお父さんにより人口呼吸が施されました。しかしその思いは叶わず、朝美さんは搬送先の病院で息を引き取りました。享年16歳。この震災により、大切な娘を失った大石さん。取材の中で、大石さんは当時の朝美さんとの思い出の写真を笑顔で見せてくれました。10年、20年と時間が経っても忘れることのない娘との思い出。朝美さんを想う気持ちは当時のまま。震災から20年。母親の想いを聞きました。

◆トーク2
神戸の街が表面的に復興したように見えても、記憶の中に朝美さんが生きている限り、大石さんにとっての復興への歩みは続きます。どんなに苦しい思いをしても大石さんはこの20年を前向きに歩んで来られました。この20年、彼女を支えたものとは何だったのでしょうか。そして、震災があった1月17日午前5時46分。大石さんは「最後の声を聞くことが出来なかった。娘の声が聞きたい」と取材の中で何度も口にしていました。今、朝美さんに伝えたい思いを聞きました。取材後、目に涙を浮かべていた大石さん。それは、朝美さんを想う母親としての気持ちが溢れ出した瞬間だと思います。「心の復興」に終わりはありません。だからこそ今、私たちに出来ることは被災者の声を聞き、寄り添ってあげる事です。被災者の声に耳を傾けることは被災された方の心を開いていく一つの手助けになります。現在、日本ではこれからも多くの大震災が予測されています。この放送を聞いているあなたなら、震災が起きた時、街の復興にばかり目を向けるのではなく、被災者に寄り添いその声を聞くことが出来るのではないでしょうか。最後に、私は自分の身を守るという意味でも阪神淡路大震災について学べて良かったです。私のように震災を経験していない人にとって、震災について知るきっかけがこの番組であって欲しいと思います。

テーマ:民族の壁を越えて、「共死」そして「共生」
担当:厳素芬 取材相手 陳来幸さん
◆トーク1
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒(日本時間=UTC+9)、淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、Mj7.3の兵庫県南部地震が発生した。この大震災において、多くの人々が、震災の激しい被害に直面し、強い意思で生き延びてきた。また、多くの人々が、さまざまな場所で、さまざまな立場でさまざまな経験をした。これに対して、これらの多くの人々が、一つ共通な思いが持っている。それは、震災を遭遇した後の家の瓦礫、心の破片はどのように修復できるのか、希望と夢を持ち続いた。

◆トーク2
今年(2015年)の1 月17 日は、阪神淡路大震災が起こってから20 年目、多くの実践や試み、努力が積み重ねられた今。当時、想い描いた復興のすがたの中で、実現できたこと、実現できなかったことも明らかになってきた。また、復興についての考え方が変化したり、新たな課題が見えてきたりとしたということもあるかもしれない。
これらの震災を経験された方々に、特別なグループがあった。それは神戸在住の華人・華僑の方たちなのだ。そのグループの一メンバーである陳来幸さんにインタービューし、震災当時の状況と震災後に変化があったことを明らかにする。それに対しての「復興」をどう考えるのか、実現したこと、しなかったこと、ついてうかがう。震災をしらない若い世代に、新華人・華僑の方たちにどのような影響を及ぼすのかを究明したい。
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2015年01月20日

関西学院大学総合政策学部山中速人研究室 3年「あなたと話したい、復興ってなに?」阪神・淡路大震災から20年、あらためて復興の意味を考える(3)

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2015年1月20日担当:原千純(左)金城暁子(右)
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・原千純 取材相手:木辻清子さん

◆Talk1
今回インタビューをさせていただいたのは、木辻清子さん(62)。震災当時も現在も新長田の市営住宅にお住まいで、車いすに乗っておられる。現在はピータンハウスという、主に車いすの方が働く作業場に勤めておられる。木辻さんは、被災した当時、近くの学校の体育館で避難生活を送った。トイレがなかったため、家まで戻っていた。その際、瓦礫を箒で掃きながら移動しなければならなかったため、とても苦労された。
現在の生活は、公共施設にバリアフリーが増え、道路もきれいに整備され、過ごしやすくなったと語っておられる。
ピータンハウスは、震災当日が開所予定日だった。その場所が震災で潰れてしまったが、ボランティアの方々をはじめ、たくさんの人達に支えられ、再スタートをきることができた。

◆Talk2
現在苦労されていることは、玄関前の段差により、車いすでは訪問しにくくなっているということ。新しく建て替えられた住宅には段差が多いそうだ。この段差が、車いすに乗っている人とそうではない人がかかわり、関係を築いていくことを難しくしている。木辻さんは、ピータンハウスを、そういったかかわりあえるきっかけの場にしていきたいとおっしゃっていた。
ピータンハウスは、設日当初から、人とのつながりを大切にしてきた。そして、「障害あるなしかかわらず、老いも若きもピータンハウスによっといで」をキャッチフレーズにし、地域とのかかわりをもっとやっていきたいと木辻さんは語っていた。
ピータンハウスは震災が起こるまで積み上げてきたものがなくゼロからのスタートだった。たくさんの人に支えられて20年間やってこれたことが一つの復興の形ではないだろうか。ピータンハウスがこれからも人と人との架け橋になってくれることだろう。
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・金城睦子 取材相手:米久博子さん

◆トーク1
宝塚市にお住いの米久博子さん。警察官の旦那さんが泊まり込みのお仕事中に、5歳と10歳のお子さんとともに被災されました。旦那さんとは連絡が取れずに、心配な時間を過ごしました。余震に耐えられず、宝塚から大阪へ避難しに行こうと思い立つが、電車が止まっていたので中山まで歩いて行ったそうです。警察官の旦那さんは、ずっと仕事で出ていて、休みがもらえれば、大阪の家族に会いに来ていました。旦那さんは、仕事のつらさを、米久さんに、涙を浮かべながら話してくれたそうです。余震がましになって、宝塚に帰っても、苦労は続きました。お子さんの心の傷は大きかったようです。一人の空間に耐えられなかったり、大阪から宝塚に帰ることを拒んだりしました。

◆トーク2
米久さんは、「子育て学習会」という団体で、震災のデータが記載された、冊子を作るために、先頭を切って活動を行いました。震災の苦しさから逃れたいという思いと、子どもたちにデータを残してあげたいという思いが強くありました。「街も心も完全には復興していない。」と語る米久さん。今でも思い出すと、涙が溢れるそうです。つい最近まで、フェニックス共済でお仕事をしていました。1月17日、宝塚市で、震災を見立てて避難訓練が行われました。その際、お仕事中にもかかわらず、思わず涙が溢れてしまいました。それを見た、職場の方々は、優しい言葉を米久さんにかけてくれたのです。「痛みの共有が心の復興へ向かう」ということを、実感したそうです。
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2015年01月13日

関西学院大学総合政策学部山中速人研究室 3年「あなたと話したい、復興ってなに?」阪神・淡路大震災から20年、あらためて復興の意味を考える(2)

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担当:富家さつき(写真右)取材相手 宇賀芳樹さん 小柴早紀子(写真左)取材相手 中嶋邦弘さん
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インタビュー対象者、宇賀芳樹さんについての紹介
 神戸市須磨区、真言宗の浄徳寺のご住職
インタビューした理由
 他の人よりも多く「死」と向き合ってこられたご住職のお話を聞きたい。
 宗教者にとっての「復興とは」
震災当日の話
復興を早くしないといけないと強く感じた出来事
 お母さんと赤ちゃんの話
復興の原点とは
 「早く町を元通りにしないといけない」
住職にとっての復興とは
 若者たちが育っていくこと
震災の良い方の産物とは
 ボランティア活動が始まる
 ライフラインの大切さ

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今住職がしていること
 毎日ご冥福をお祈りし続けたい
震災の記憶が風化されないように
 鐘を毎日つき続ける
 亡くなった方々の慰霊をし続けていきたい
まとめ
 まだ復興は続いている
 震災の体験を語り継いでいかなければならない
 震災当日だけ震災の事を思い出すのではいけない
 私たちにできること

ご住職はこのインタビューを通して「復興は復興の原点なくして語れない」と何度もおっしゃっていました。住民の方々が「早く町を元通りにしないといけない」と口々に叫ばれたことが復興の原点である、とおっしゃっていたのが印象に残っています。
そして、震災の記憶を忘れてはいけない、という強い思いからお寺の釣鐘堂を一番に復旧させ、毎朝震災が起こった5時46分に鐘をついておられます。震災で亡くなった方々の慰霊をし続けて、震災の記憶を風化させないようにしないといけない、という思いが伝わってきました。

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中嶋邦弘さんの紹介
 震災当時50歳、兵庫県の職員として災害対策本部で政策に関わっておられた。
 現在、兵庫の郷土史を伝える活動や、FMYYでの放送をされている。
 震災に関わる活動のお手伝いもされている。
当時の状況
 自宅で被災され、県庁に来てからは無我夢中に目の前のことに取り組んだ。
政策に関わる中で感じたこと
 実際に経験していないと分かってもらうことが難しかった。
 国に要求を出しながら、災害対策本部を現地におき主体となって動いた。
 国・県・市町村が一丸となって当時すべきことに取り組んだ。

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変換点となった阪神淡路大震災
 災害対策の基盤を作り上げることとなる。
忘れてはならない教訓としての阪神淡路大震災。
今後出てくる問題が現れたので、これを政策にどう生かすか。
中嶋さんにとっての復興
 人がいないと復興じゃない。だからまだ復興はしていない。
 復興にゴールはない。日々変わる社会情勢に対応したものが求められている。
現在の活動への思い
 昔から好きだった郷土史を伝える活動をされている。
 県や市のために何かしたいという思いを持ち続けている。
中嶋さんは阪神淡路大震災が、日本の災害に対する制度や意識を大きく変えたものであり、今の教訓となっているということを強く話していた。行政機関は一丸となってできたけど、復興への正解は見つからないということが強く印象に残っています。
現在も兵庫県の郷土史を伝える活動をされており、県や市のために何かしたいという思いをインタビューを通して強く感じました。
posted by fmyy at 21:36| Comment(0) | Podcast | 更新情報をチェックする

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