2014年02月11日

関西学院大学総合政策学部山中速人研究室「自分のルーツをさぐる」 第6回

担当:江本俊 

◆トーク1
まず初めは、曽祖父の生い立ち(家庭環境や、職歴など)の紹介を歴史的な出来事をまじえながらしていきました。そして、次に曽祖母の生い立ちの紹介に入りました。次に当時の家族の状況について話している祖母のインタビューとそれに対する自分のコメントを入れました。最後は、祖母にインタビューしている中で、最も印象的だった部分を入れ、それに対する自分のコメントを入れました。

◆トーク2
この部分では、まず、祖母の兄に実際、戦時中にあったエピソードをインタビューで聞き、その中で興味深い内容だった、アメリカ兵の話と、飛行機から巻かれてくるビラの話について前半部分に入れました。そして次に、広島に投下された原子爆弾について聞き、当時の家族はどのような状況だったのか、当時原子爆弾はピカドンと呼ばれていたということを話していた部分を入れました。そして最後はそれらに対する自分の感想を入れました。

◆トーク3
最後の部分では、まず祖母の生い立ちについて話をして、そしてなぜ広島から尼崎に移ってきたのかについて、尼崎に来てからの職歴や祖父との出会い、そして花屋を始めた理由と現在までの流れについての話を入れています。そして、最後は今回の自分のルーツをたどるという番組制作を通じて、自分がどう思ったか、またこの経験によって自分がどのように感じたかなどのコメントを入れています。
posted by fmyy at 14:25| Comment(0) | Podcast | 更新情報をチェックする

関西学院大学総合政策学部山中速人研究室3年進級制作「自分のルーツを探る」 第3回

018.JPG
担当:谷本悠介 取材相手 谷本愛子


 
posted by fmyy at 14:20| Comment(0) | Podcast | 更新情報をチェックする

関西学院大学総合政策学部山中速人研究室3年進級制作「自分のルーツを探る」 第4回

DSC_0486.JPG
担当:藤久保祐生 取材相手:母方の祖母の住吉節子さん

◆トーク1
今回番組のインタビューに協力していただいたのは、母方の祖母の住吉節子さん。私は祖母にインタビューし、当時の食生活と生活の苦労を知ることができました。祖母の小学校の頃の暮らしはそれなりに苦しかった。当時、祖母の家にお風呂がないため夏の暑い間は、行水をした。生活費を払うのだけで精一杯であった祖母の家族。1958年(昭和33)は、給食を受けることができなかったため、祖母とその姉は家に帰ってご飯を食べてから、また学校に行くことを毎日繰り返していた。だがそんな生活の中でも、運動会や法事の時には豪華な食事が出てくることもあり、わくわくしたそうです。上手に祖母は生活を乗り切っていた。

◆トーク2
1962年(昭和37年)、祖母が小学校6年生のときにお小遣い稼ぎのために内職を始めた。祖母によると給料としてもらえたのは、年間で1500円ほど。祖母は稼いだ貴重な給料で、お正月に姉とおそろいの上着をかったことを覚えていると話していた。
次は1963年(昭和38)。祖母が小学校を卒業し、中学校に上がったころ、一つの大きな出来事を迎えた。それは祖母の父親が病気にかかり1~2年ほど入退院を繰り返すようになったことです。
父親が入退院を繰り返したことで、収入が少なくなったと厳しい家庭だった。祖母によると
祖母と姉が生活を切り盛りし、また母親が入院費を稼ぐために大きい和菓子屋さんで働き始めました。

◆3
しかし、祖母の母親の熱心な介護も1967年(昭和42年)に、祖母の父親は胃がんで亡くなった。父親がなくなった後の生活は、決して楽ではなかったが祖母もその姉や母親も家族で一丸と働いていたので、生活自体は苦しくなかったそうだ。
その後祖母は中学を卒業し、その後は生前父親が働いていた溶接会社で、会社の事務員として働いていた。その時に今の夫である「住吉政照」と知り合い、現在私含めて3人で生活と至ります。最後に「食生活」に対する考え方で、祖母は「大変な状況があったことも忘れないでほしいです。若い人にもぜひ伝えていけたらいいですね」と話した。
posted by fmyy at 13:58| Comment(0) | Podcast | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。